武家の太刀 〜鎌倉・南北朝・室町時代〜
実戦用から神社奉納用へ
鎌倉時代後半より実戦用から離れ、いつしか儀礼化して神社の奉納用として製作されるようになった。 この変化の理由について、一つは兵庫鎖太刀そのものの製作費がかさみ、そのため経済的な事情から衰退していったとする見方がある。 もう一つ、位階の高い武家しか佩用できない高級な太刀であったことが「三代制符」などの記録によってうかがわれるが、こうした貴重性からやがて、神前に最も高価で貴重なものとして捧げて祈願することへつながったと思われます。 つまり、時代が下がるにしたがって、武家の財力低下と相俟って、豪華な太刀から粗末な奉献用太刀へと変化したのではないかと考えられる。奉納用の兵庫鎖太刀をみると、鋭い刀身に代わって薄い貧弱な鉄板状の刀身と、ただ形式をとどめただけの簡略化された外装とで作られ、盛行期の作品と比べると大きな差がある。 現存する主な兵庫鎖太刀の奉納例としては、沃懸地酢漿紋兵庫鎖太刀(春日大社蔵・国宝)、沃懸地酢漿平文兵庫鎖太刀(春日大社蔵・国宝)、沃懸地群鳥文兵庫鎖太刀(三島大社伝来・東京国立博物館蔵・重要文化財)、三鱗紋兵庫鎖太刀(三島大社伝来・東京国立博物館蔵・重要文化財)、蓬莱文兵庫鎖太刀(丹生都比売神社蔵・重要文化財)、鶴丸文兵庫鎖太刀(熱田神宮蔵・重要文化財)、鶴蓬莱文兵庫鎖太刀ほか5振り(厳島神社蔵・重要文化財)などがある。 刀身より見て、春日大社、東京国立博物館、丹生都比売神社の所蔵品は、実用性の強い兵庫鎖太刀、熱田神宮、厳島神社の所蔵品は奉納用として作られたと思われる。 そのうち厳島神社には兵庫鎖太刀が6振り現存しており、それ以外にも数点あったが、焼失している。これは一社では最も多い数である。それぞれに寄進状が添えられてたことがわかり、延応元年(1239年)を上限とし、正応6年(1293年)を下限とする54年間に、鎌倉幕府より寄進されたことがうかがえる。 寄進の動機をみると、延応・仁治・寛元(1239〜1247年)の寄進状は「天下泰平」「国土豊稔」「息災延命」といった安泰興隆を願うものである。 次に文永から正応(1264〜1292年)の寄進状には「異国降伏御祈」のみ書かれている。これは文永・弘安の役(1274・1281年)が起こり、蒙古襲来で非常事態にあった鎌倉幕府が、元軍の降伏を祈願して寄進したものである。 こうした古文書の内容と当時の社会的背景とを合わせ考えると、緊迫した国内情勢が想像される。このような状況下で神に最も貴重な物を捧げ、一番大切なことを祈る。そこに刀剣奉納の故事はつながっていく。
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