三条小鍛冶宗近〜相槌打ったは稲荷明神の使い〜 さんじょうこかじむねちか
宗近は平安時代の中頃、京の三条に住んでいたことから、三条小鍛冶と呼ばれたとある。一条天皇の御宇(治世)で、清少納言が【枕草子】を書いた当時であるから、平安時代でも、とりわけ平穏無事な治世であり、宗近の太刀姿が優美なのも、時代の空気を映したものに違いない。 権大納言藤原伊周なる漢籍に通暁した人物が、天皇や中宮がまどろまれるのも構わず、明け方の三時過ぎまで進講を続け、犬の鳴き声で天皇がびっくりして目を覚ました途端、間一髪入れず、「声、明王の眠りを驚かす」と、都良香の詩の一節を高唱したので、天皇も苦笑されたとのエピソードが伝えられるほど、のどやかな時代であった。 さて、三条小鍛冶宗近が、勅命によって国家鎮護の太刀を鍛えることになたものの、これは神のご加護がなければ到底なし得るものではないい、と思い定め、伏見稲荷大明神に、名剣を打たせ給えと祈誓した。 すると不思議な童子が現れて、「大丈夫打てる」といい、中国や日本の古名刀の話をして力づけた。そして宗近が注連縄を張り、神々に祈誓しながら仕事にかかると、どこからか狐が現れて手助けをしてくれ、目出たく宝剣を完成させたという。謡曲「小鍛冶」は、こうした霊験を謡っている。 国宝「三日月宗近」は、刀の模様が三日月の形をしているため名づけられたものだが、往時は「五阿弥切」と呼ばれ、室町時代には「天下五剣」の一つにされたという。 この小鍛冶宗近、妙に狐に縁があると見えて、例の永禄四年(1561年)九月十日の川中島合戦において、次のようなエピソードを残している。 武田信玄の麾下に、名門伊那小笠原氏の一族小笠原若狭守長詮なる部将がいて、この合戦に三条小鍛冶宗近鍛えるところの名刀「狐丸」を帯びて出陣した。白地に三蓋菱の旗を揚げ、郎党を率いて、勝ち誇る上杉勢の真只中へ突入した。この瞬間から、千曲川の流れも静かな川中島の平原は、けものの咆哮をおもわせる怒号喚声や、はげしい陣鼓、陣鐘の響き、入り乱れる敵味方の旗指物や刀槍のきらめく凄惨な天地と化した。 小笠原は「狐丸」をふるって激戦したものの、顔を一颯され血まみれとなり、やがて兜は落ち、髪はざんばらとなって郎党も次ぎ次と討たれ、もはやこれが最期かと思われた時、突如、側臣の一人桑山茂見なるものが、「われこそは、新羅三郎義光の苗裔、小笠原若狭守長詮なり!」と叫びながら名乗り、太刀をかざして暴れ狂ったため、その間に小笠原は、雑兵に紛れて落ち延びることができた。しかし戦乱中に名刀「狐丸」を叩き落され、所在が不明となった。 戦後、戦場の死骸や物の具は埋められ、所々に塚がつくられたが、そのうち奇妙なことに、一つの塚だけに毎夜、狐が多く集まることが知られた。里人が不思議がり掘り返してみたところ、人骨に混ざって現れたのが、名刀「狐丸」であったというのだ。先の謡曲「小鍛冶」に見る霊異譚といい、小鍛冶宗近は狐と余程深い因縁があると見れる。
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